フランスのInstitute for Advanced Study in Toulouseの公文譲先生(インタビュー時点)は2022年6月から8月末までの3か月間CEIの特任准教授として経済研究所に滞在されました。公文先生は経済格差の比較経済史の研究に取り組んでおられます。子供時代を英国で過ごされた先生がどのようにして日本の近世の研究をなさることになったのか、また海外で育んでこられた研究者としての姿勢などを話していただきました。
Q: イギリスには何歳頃から移られたのですか。
イギリスには3歳のころに行き18歳まで住んでいました。ですから義務教育はすべてイギリスで終えました。
Q: これだけの日本語を維持されてきた、ということが驚きなのですが、何かご家庭で特別な日本語の勉強をされていましたか。
学校はすべて現地校で、日本語は土曜日の補習校で学びました。親などとは日本語で話していたのですが、年齢が上がるごとに年相応な日本語とはほど遠いものになってしまい、親ともあまり日本語で話さなくなってしまいましたね。日本語が上達したのは日本の大学に入ってからです。
Q: ほとんどの教育を英国で受けていながら日本の大学に進んだのは何故ですか。
実は自分から日本の大学を選んだということではないのです。本当はオクスフォード大学の数学科を目指していたのですが、失敗してしまい、その時に僕の三つ子の兄が日本の大学に進学を希望したので、それに乗っかって自分も日本の大学への進学を決めたのです。もし兄がそのようなことを言い出さなければ、僕は英国の大学に進んでいたと思います。
Q: 三つ子ですか!それはすごいですね。イギリスでも注目の的ではなかったのですか。
まあそうですね。でも一卵性ではなかったので...
Q: 差し支えなければ、お父様は大学の研究者として英国に渡られたのですか、それとも企業の駐在員として?
日本企業の駐在員としてでした。母は専業主婦でした。最初は数年の予定だったのが、なぜか15年もの駐在になってしまったようです。特に帰国の時期ではなかったのですが、僕たち三つ子が日本に進学のために戻ることになり、急遽両親も帰国することになりました。結局姉だけが一人で英国に残りました。
Q: 三人とも初めての日本の学校生活で大変だったでしょうね。
それは大変でした。聞くのと書くのはどうにかなっていたのですが、話すことが大変でした。読むのは、英国でも小説などを自主的に読んでいたのでむしろ得意でした。でも大学で使う専門用語などは苦手でした。数学でも日本語での専門用語を覚えていなくて大変でしたね。
Q: 研究者への道を進もうと思われたのはいつごろからですか。経済学へ進むきっかけや影響を受けた方などはいらっしゃいますか。
研究者になろうと思ったのは慶應義塾大学の学生だった3,4年のころですね。慶應の経済学部では英語の授業が必修科目だったのですが、英語力のある人は英語で行われる好きな科目の授業を受けるという形式でした。そこで歴史の先生について発展途上国の歴史などを学んだのですが、その先生から研究者への道を進められたのです。それまでそのような進路は考えたこともなかったので、背中を押されたという感じです。最初は歴史の道に進みたいと考えていたのですが、経済学部から史学部への転向は難しく、その時に経済史という分野があることに気が付いたのです。これなら、自分がやっている専門の知識を生かしながら歴史への興味も満たせると思いました。
Q: つまりきっかけは経済学の授業ではなく、経済学部の中の英語で行われた歴史の授業ということなのですね。それはどの国の歴史だったのですか。
先生は古代ローマの専門家だったのですが、これに限らなくてもいいとおっしゃってくださり、僕が興味のある発展途上国について学ぶ事を応援してくださいました。そのうちに歴史をテーマとして分析していくことが面白くなっていったのです。
Q: 発展途上国というとアジア諸国ですか。
いえ、タンザニアやコロンビアです。歴史の先生も一国に限らず、いろいろな国を幅広く大きな視点で見た方がいいというご意見をお持ちでした。その影響もあり、今でも日本だけでなく日本と世界とを比較しつつ研究をしています。
Q: 歴史がお好きだったのですね。
高校のころから歴史は校内で一番の成績をとったりしていて好きでした。でも親からは「歴史では食べていけない」と言われ、それで得意だった数学への進路を考えたりしていたのです。
Q: マルチに色々な分野に秀でていらっしゃったのですね。英語はもちろんのこと、歴史、数学、文学など。
バランスはまあ良かったと思います。でも苦手な分野もありましたよ。国語とか語学はダメでした。フランス語、ドイツ語なども学校で習ったのですが全く覚えていないですし。
Q: でも、カリフォルニア大学 Davis校で博士号を取得された後はイタリアのBocconi大学、そして今年の6月まではフランスのトゥルーズ高等研究所(IAST)など、各国で研究生活を送っていらっしゃいますよね。9月からはノルウェーの研究所に移られますし。現在の語学力はいかがですか。
ドイツ語、フランス語はベイシックなところは大丈夫になりましたが、イタリア語はコロナの時期に覚えようとしたので中途半端に終わってしまいました。それに、キャンパス内はすべて英語が使われているので、学ぶインセンティブがなくなってしまうところもありますね。
Q: イギリスで日本の本を多く読まれたということでしたが、どのような本を読んでいらっしゃったのですか。やはり歴史ものですか。
村上春樹の小説などを読んでいました。補習校の休み時間にそういう本をたくさん読んでいました。日本の歴史は全く読まなかったですね。補習校の歴史の教科書がとても退屈だったので。(笑) 歴史関連の本は主に英語で海外のものを読んでいました。
Q: それは意外でした。いま日本の近世の研究をなさっているので、そのような分野の本を沢山読んでおられたのだと思っていました。特に日本にかかわる研究、アジアもかかわっているのかもしれませんが、そのような研究をしたいと思われたきっかけは何だったのでしょうか。日本語ができるからですか。
そうですね。インスピレーションじゃないですが、ただ単に日本語ができるからということだけで。東京大学の修士課程のころは日本にいましたし、やはり得やすい資料は地元の資料ですから、そこから日本を研究対象にすることになりました。資料へのアクセスがいいということと言語的にも理解しやすいということですね。後で分かったことですが、資料がないと研究は進みませんが、資料のある国というのは案外限られているのです。ですから結果的に日本を選んでよかったとも言えます。
Q: アメリカ経済史学会のアレクサンダー・ガーシェンクロン賞を受賞なさったときに『経済セミナー』に掲載されたインタビュー[1]を拝見したのですが、研究では「宗門人別改帳」という資料を使われているそうですね。日本経済史を研究するにあたって日本は特に資料が充実しているのでしょうか。保管がいいとか、几帳面に記載されているとか、何か特性はあるのでしょうか。
日本では資料館などでかなり良い保存がされています。日本で面白いのは、江戸時代から日本はとても識字率が高い国だったという点です。ですから農民の人たちも自分たちの資料を残しています。他国では、農民層が資料を残しているということはほとんどないので、それは日本の資料のかなりユニークなところだと思います。
Q: 海外ではどのような人がどこに記録していた資料があるのでしょうか。
海外の資料収集はあまり行なっていないので詳しいことはわかりませんが、私の専門の不平等研究などに関しては国が集めた資料が多いですね。国ベースのものになりますね。
Q: 海外では役人ベース、日本では識字率の高さもあり庶民ベースの記録が残っているということですね。どうしてこのような記録がきちんと残ってきたのでしょうか。
例えば、日本は「領主が中央から役人を派遣して資料を集める」というシステムではなく、「村の役人が資料を作成して領主に送る」というシステムだったので、村にも提出した資料のコピーが蔵などに保管され、資料が残ったのです。それらが現在は各地の資料館などに保管されているのです。もちろん、かなりの部分はすでに失われてしまってはいますが。
Q: そのような資料をイギリス育ちの公文先生が読み解けるというところに感心致しました。私たちからすれば筆で書いてある昔の資料は見るだけで全くどこから手を付けたらいいかわからないのですが、そのような技術はどのように会得なさったのですか。
大変といえば大変ですが、自分が必要と思ったときに身につきました。東大で修士の時に、古文書読解の授業などもあったのですが、その時は全く身につかず、必要になったときに本気で読もうと努力すると一、二か月で身につきましたね。
Q: すごいですね!達筆なのでしょうが、私にはほとんど字には見えないようなものがそんなに短期間で解読出来るようになるなんて!
もちろん完璧に読むことはできません。でも完璧に読めなくとも、五、六割以上読めれば大体の内容はわかりますし、必要な数値などの情報はしっかり読めているので、データとして使えますからね。
Q: 必要になったときとは、いつですか。
古文書を使い始めたのは海外に行ってからです。UC Davisで博士課程にいたときに、当初は明治・大正・昭和の研究をしていたのですが、指導教員から江戸時代のほうが面白いから今やっていることを江戸時代まで伸ばして長期的に見てみるのはどうか、とアドバイスされたのです。最初は古文書も読めないのにそんなことできるわけないじゃないか、と思ったのですが、意外にやってみればどうにかなるものだな、と思った次第です。
Q: 指導教員は日本人ではないのですよね。その方は日本の古文書資料が読めるのですか。
いえ、その先生は全く読めません。そのようにアドバイスされたので、自分で日本に行って資料を探しました。もともと歴史が好きだったのでこのような苦労も難なく乗り越えられたのだと思います。今回の一橋大学での任期中も、何回も資料館に通っていますが、全く苦になっていませんね
[1] 雑誌収録版:『経済セミナー』2020年2・3月号「この人を訪ねてVol.18 アレクサンダー・ガーシェンクロン賞受賞」
Q: 江戸時代がやはりお好きですか。
特に江戸時代というよりも、長期的に大きく見るのが好きということでしょうか。変わるものと変わらないものは何なのか、普遍的なものを探るのが面白いですね。ただの一時的な現象ではないものとの見極めをつける、その部分が面白いと思っています。今では中世にも興味を持ち始めています。さらに長期に見ていきたいという気持ちが起こっています。
Q: では、今の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」などもご覧になっていますか。
いえ,観てないです。(笑)面白いのですか。
Q: とても面白いですよ!ぜひご覧になってください。 一番最近のご研究はどのようなものになるのでしょうか。
最近始めた研究は二つあります。一つは大枠としては奉公人の研究です。江戸時代の賃金を奉公人の契約から抽出するというものです。まず男性、そして次に女性の賃金について調べました。資料を集めている途中で、女性の奉公人契約の中に売春婦のものが混ざっていることに気づきました。そこで売春婦の研究もすることにしました。普通の奉公人と売春婦の賃金の差を調べたりしていますが、その中に売春婦たちが十歳くらいの幼少期から廓などに売られ、十五から二十年ほど働かされていたという資料が見つかりました。近代以前の自由な市場の中でどのように人が売られていったのかということも見えてきて、そういうことにも興味を持っています。十歳から十二歳くらいで大人の男と同じかそれ以上の稼ぎを得ていたということから、稼ぎがその職業に就くインセンティブになっていたのだということが分かりました。このように売春婦の賃金が分かる資料が多く残っているのは日本くらいだと思うので、そのようなブラックな市場についても数量的に分析できるというのは興味深いと思います。
もう一つの研究は封建的な土地所有という枠組みについての研究です。封建制というと土地はすべて領主によって所有されているというイメージが強いのですが、最近の研究で実は農民も土地を所有していて、むしろ農民のほうが土地からうまく地代を取り立てていたということが解かってきたのです。そこで、それを数量的にデータで明らかにする研究をしています。中世までさかのぼって、土地から上がる収入の何割が領主に行き何割が農民のものとなったかを、千年くらいのスパンで示せれば面白いのではないかと思っています。最終的には、領主の力がそれほど強くなかったということを見出せればよいのですが。時代劇などで植え付けられた領主の権力の強さが実はフィクションであるということを明らかにしたいです。「農民は弱い」としておいた方が農民にとって有利だったので、このようなフィクションが作られていったのではないでしょうか。
Q: 新たな歴史的視点を示していくということですね。時間のかかりそうな研究ですね。
封建制の領主の力に関しては二、三年かけてやっていこうと思っています。資料はすでに半分くらい集めたので、残りの半分を集めてデータを入力して分析を進めていこうと思っています。結構大きな研究テーマなので、データを収集するのに時間はかかりますね。
Q: それでは、今後も日本にたびたび帰国なさらないといけなくなるということですね。
そうですね。でも資料を集めすぎるタイプなので、昔集めてまだ分析が終わっていないデータも手元に大量にあります。だから材料は結構ありますよ。
Q: 他国との比較もなさるということでしたが、どの国との比較が多いのですか。
大概ヨーロッパです。長期的な分析が進んでいるのはヨーロッパくらいしかないので、比較対象は限られてしまいます。もちろん、資料が残っていればアフリカなどとも比較してみたいのですが。データがあったらとても面白いと思うのです。アフリカは貧困な地域というイメージが強いのですが、近代以前はむしろ裕福な地域だったのです。その理由は、病気などによる死亡率が高かったので、人の労働価値が高くなりました。労働者が少ない分賃金が高くなったということです。つまり、今とは全く違う社会状況だったはずで、たいへん興味があります。これに対して、日本では中世までさかのぼっても、人口が多いので労働者の価値が低く、貧困率が高かったのです。
Q: 中国などはどうですか。
中国にはそこそこは資料があるのですが、多くは残っていないのです。政権が変わるごとにすべて焼かれてしまうという伝統があったようなので。日本と同様の数量的な分析を行うのは難しいようです。
Q: 先生の書かれた論文に、「日本では庶民は自分の使用できる土地をある程度持っていたので賃金が低くてもどうにか生き延びていくことが出来たが、ヨーロッパでは庶民は土地の所有を禁じられていたので賃金が高くないと生き延びられないので賃金が高くなっていった」[2]、と書かれていますが、二つの地域の貧困の度合いはどのようなものだったのでしょうか。
日本とヨーロッパの平均的な家を比べると、総収入は似てました。ただし、ヨーロッパ人の収入のほとんどは賃金であったのに対し、日本人の収入の中では賃金(労働収入)と地代収入の両方がありました。よって、総収入は似ていたものの、経済の仕組みは全く異なっていました。日本においては賃金が低かったので、マーケットのシグナルとして生産において安い労働者をより多く投入するインセンティブがありました。逆に、イギリスなどでは使用できる人が少ないので、その代替として機械化が進むなど違ったシステムに進んでいったのです。例えば、江戸時代でも戦国時代の後は労働者が足りなかったので、賃金がそこそこ高くなり、牛馬を使った農業が営まれていたのですが、賃金が安くなっていくにつれ牛や馬の数が減っていきました。西洋では考えられないような現象です。しかし、こういった社会の仕組みの違いにかかわらず、最終的には日本でも工業化が低賃金に関係なく進んでいくことができました。日本において、低賃金が産業化の妨げにはならなかったのは興味深いです。なぜそうなったのか、そのパズルは解明されなければならないと思っています。
[2] Working Paper "How Equality Created Poverty: Japanese Wealth Distribution and Living Standards 1600-1870"
Q: 先日、経済制度センターのセミナーでのご報告[3]では女性をテーマに取り上げていらっしゃいましたが、どのような内容だったのですか。
江戸時代の女性と男性の賃金格差についての研究です。同じ労働、同じ農作業などをしていても、当時の日本女性の賃金は男性の七割くらいでした。その理由は、男女差別ではなく、農業は力仕事が多いので男女の生産性の違いを反映したものだったということ、また当時の日本における男女間の賃金格差は、ヨーロッパともそれほど違っていなかったということを明らかにしました。ただし、女性の持つ権限という点では、日本女性はヨーロッパ女性と比べると劣っていました。日本では女性の賃金があまりにも低かったため、単独で生活することは不可能に近く、「早く結婚して所帯を持つことによって一定の生活水準を保つ」ことがテンプレートとなっていったのです。ヨーロッパと男女間賃金格差を比較するとほぼ同じなのだけれど、実際の日本女性の賃金水準があまりにも低かったという点が重要です。江戸時代のある女性の事例で、結婚が何度か破綻したのち、もう結婚はこりごりだと、江戸で自立しようとしたものの、やはり生活が厳しく結局また結婚生活に戻った、という話を読んだのですが、この事例にも表れている通り、日本の賃金水準の低さは相当なものだったのです。ヨーロッパならば女性でも一人で暮らせるだけの賃金を得ることが出来ていたのです。日本の二倍は得ていました。日本は皆婚社会でしたが、ヨーロッパはそうではなかった。日本では女性の結婚年齢が二十歳前だったが、ヨーロッパは二十五歳くらいだった。このような事実は、賃金水準の差によって説明ができるのではないか、というのが結論です。
Q: それは最近日本で問題になっている、世界から見ても日本の賃金が低いという問題とも重なりそうな話ですね。
今も日本女性の地位は国際的にみて低く、文化的にも男尊女卑的な考え方がまだ残っているようにみえます。経済が発展したからと言ってすぐ状況が変わるわけではないという点では連続性はあるのかもしれませんね。最近驚いたのですが、あるサーベイで、「仕事が少ない場合、女性は仕事をすることをあきらめて男性に仕事を譲るべきか」という質問があったのですが、日本では三割から四割がそのような考えに賛成していたのです。ヨーロッパだったら一割くらいだと思うのですが。やはり文化は変わりにくいのでしょうか。
Q: 同じ分野を専攻している若い研究者の方々へのメッセージをいただけますか。
僕は外国でずっと教育を受けてきたので、日本とは教育の方法が異なることに気づくことも多いです。日本では、歴史の授業では起こった事柄を覚えていくことがメインだと思うのですが、英国ではあることが起きたことを前提として、それがなぜ起きたかという解釈は色々あるが、それを議論していくのが歴史だと教わります。事実を発掘するのではなく、「事実が起きたことをどう解釈していけばよいのか」ということを学ぶのです。この学び方は、今の自分の研究姿勢にも役立っていると思います。教育の違いがその後の研究姿勢にも表れているような気がするのです。日本の研究者の論文は詳細で網羅的な傾向があるのですが、海外の論文は話をうまく膨らませてメッセージとしてストーリーを伝えようとする意識が強いと思います。僕は明らかにストーリー系の人間だと思います。細かい事実の確認も大切なことはよくわかりますが、僕自身は大きなテーマに取り組む方が面白いですし、もっと大きなパースペクティブで見ることにより、更に研究への意欲もわくので、若い研究者にも事実の確認だけで終わらず、それをより大きなストーリーにつなげていってみてほしいと思います。
[3] CEI Working Paper 2022-5 "Women's Wages and Empowerment: Pre-industrial Japan, 1600-1890"
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公文先生、帰国前のお忙しい中、私たちのインタビューにお付き合いいただきありがとうございました。近世の研究が現代の問題にも繋がっている事がわかり、先生のご研究がとても身近に感じられてきました。これからも大きな問いをグローバルな比較分析とともに鋭く解析し、素晴らしいストーリーのある研究が生み出されていくことを楽しみにしております。9月からの新天地ノルウェーのNHH Norwegian School of Economicsでのご活躍をお祈りしております。
インタビューアー: CEI 狩野倫江・吉田恵理子 (2022年8月24日収録)
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