イェール大学経済学部の成田悠輔先生は2021年2月から5月末までの4か月間、CEIの特任准教授として経済研究所に滞在されました。先生は教育経済学・労働経済学・マーケットデザインの専門家としてデータとアルゴリズムを駆使し、学術研究だけでなく、企業や政府との共同研究・事業も行っていらっしゃいます。起業家の一面も持つ八面六臂のご活躍の原点や、先生の今興味を持たれていること、またこのコロナ禍で伝えたいことなど、CEIを去られる前にインタビューさせていただきました。
Q: どのような子供時代をすごされたのでしょうか。
成田: 子供時代のはっきりとした記憶があまりないんですよ。ただ、すごく問題の多い子供だったらしいということは聞いていて、無駄に延々と反抗期が続く感じだったらしいです。深い理由や動機もなく無意味に反体制・反権威な性格は生まれながらなんでしょうね。
幼稚園から小学校前半くらいまでは、今もそうなんですが、多動症的で座っていられないタイプの人間で、やたらと世の中にあたってまわるような感じで破壊行為的ないたずらをする、よくわからない子供だったらしいです。
Q: その時の心境というのは今思い出せますか。
成田: 言葉にするのが難しいタイプの感覚じゃないかな。僕はかなり最初のころからよくわからない世の中との軋轢がありました。昔からよくわからない違和感とか反発みたいな物がずっとあって、子供のころはそれが人に迷惑をかけるという方向で発動していたのではないかなという感じがします。
あと睡眠障害がひどくて、小学校の前半くらいで普通の生活ができない感じで。24時間周期で生活することができないんですよ。学校へ行く道の途中で寝はじめるとか、昼まで起きられなくて、あまりしっかり学校にいけないようなことがそのころには始まっていたような気がします。
Q: そのようなことは、いつくらいに治まったのですか?
成田: 今も治まっていなくて、24時間周期では生活できないですね。夕方まで寝ていることも多いですし、かと思うと突然朝三時に目覚めてフル稼働したり。なので多分、子供のころから普通の社会生活はだいぶ難しい感じになっていたんじゃないかと思います。普通の社会人の生活というのは無理だな、という風に自分でわかっていたという感じがありますね。
Q: よく言えばゴーイングマイウェイのお子さんだったと思うのですが、現在は社会と色々と関わっていらっしゃいますよね。
成田: そうですね。普通の社会人らしい生活とか人生は無理ということが分かっているので、それとは違うかかわり方をどうにか見つけてきたという感じですね。何かできないことがあったとすると、それの裏返しを考えればいい気がします。裏側には、人にはできないけれど自分にはできること、自分だけが経験してきたことがある場合が多いと思うのです。そういう裏側に集中するということは昔から無意識にしてきた気がしますね。
Q: 意識的ではなく、無意識にですか。
成田: あまり意識的にやってきたという気はなく、もうしょうがなくてそうなってきたのではないかという感じではないかと思います。毎朝同じ時間に学校に行くとか会社に行くとかいうのは初めから無理で、しかもよくわからないルールとかに従って生きるというのも無理なのですよね。組織人とかは無理だし、はっきりとした上司がいるという環境も無理なので、その代わりに自分に何ができるのかを無意識に考えてきたのではないかな、という感じが何となくします。
Q: 子供時代に夢中になれる事はありましたか。
成田: そうですね...僕の場合、何か夢中になれることがあるというよりは、絶えず興味や関心の対象が延々と移り変わっていくような部分があるのです。あらゆることに興味を持っている側面の方が強いのかもしれない。それがずっと続いている感じで、別に研究だけに没頭しているというのでもないですし、かといって企業と仕事をすることに没頭しているというのでもなくて、全然違うことをぐるぐるぐるぐる行ったり来たりしながら、地球が回って違うところに太陽の光が当たるような、次々と違う活動をしていくような、なんだか多動的なというか興味が発散しているような感じが昔からあったような気がします。もしかしたら無駄に興味や関心や視野が広いために目の前のことに集中できない、その代わり視野を広めることにはつながっていったかもしれないです。
Q: 大人からすればかなり難しいお子様だったと思うのですが、メンターのような方はいらっしゃたのですか。
成田: いやあ、今も昔もメンター的な人は特にいないですね。特に10代の頃は人とほとんどかかわっていなかったので一人で停滞して...
Q: 実は先生の記事などをいくつか読ませていただいて、中学生のころから哲学者の柄谷行人のグループとの交流があった、と書いてありましたが。
成田: 多少そういうのもありましたね。僕が10代前半だったのが90年代後半なんですよ。あの頃がちょうどインターネットとかウェブを通じたコミュニケーションが花開きつつある頃で、色々な情報がウェブ上に乗り始めて人とのコミュニケーションもネット上で結構できるようになった時期だったんです。それがいい方向に働いていた感じは何となくあります。
Q: 昔に比べると色々な輪にずっと入りやすいということですね。
成田: そうですね。まったく別のところにいる集団を知る機会があるとか、連絡を取る方法があるというのはネットによってだいぶ環境が変わったことの一つですね。ネットによって海外の情報も、ものすごく得やすくなったのだと思います。10代くらいの時になんだかよくわからないけれども海外の英語の論文を読みはじめたりとか、そういうことが出来たというのはネットのおかげですね。でも、人とのリアルな対面のコミュニケーションということは少なかった気がします。
Q: 先生の経歴を拝見すると、いわゆるエリート街道を進まれている方という風に思っていたので、今までのお話を伺って少しびっくりしてしまったのですが...
成田: それはたまたまそういうエリート的な評価ゲームで戦うのが単純に得意だった、それだけだと思います。特に日本だと極端な例でいうと全く人間とかかわらなくても入試でいい点さえ取れば、たとえば一橋に入れるわけじゃないですか。そういう意味でいうと人間とかかわらないで最低限のことをするだけで表面上エリートコースに見える道を進んでいけるのが日本社会だと思うのです。その特徴をいい意味でも悪い意味でも活かしているのかもしれないです。 逆にたとえばアメリカなどだったら難しかったんだろうな、と思いますね。
Q: 考えようによっては日本方式の方が面白い人を掴んでいるというか、見放していないということが言えますね。
成田: その意味ではそうですね。よくアメリカの教育とか、アメリカの大学とかは多様な人材を尊重して色々な人を許せる教育システムとなっているという人がいるじゃないですか。あれは誤解で基本的に間違っていると思うんですよ。というのは、色々な多様な軸で評価します、総合的に色々なものを考慮して評価します、ということをやると何が起きるかというと、皆あらゆる方向で八方美人的な存在になろうと頑張るんです。典型的にはアメリカのエリート高校生って学校の勉強を頑張っていい成績をとる、部活でスポーツもやって勉強だけじゃないということもちゃんと見せる、さらに休日は親のお金でどこかのボランティアとかに出かけて行って社会活動もちゃんとやっています、というようなポートフォリオをきちんと作って、自分がどっちの方向を向いてもちゃんとした存在ですよ、ということを社会的に証明しなくてはいけない。そういうプレッシャーがすごく強い。それに比べると、日本のエリート教育の仕組みというのはある意味で成績さえ取れれば他は何でもいいという仕組みなので、成績以外の側面に関しては好きなようにやれるという多様性を担保している社会だと捉えてます。
Q: 今一番取り組んでいらっしゃるご研究は何でしょうか。
成田: そうですね。色々な研究をしているのですが、ここでお話して面白いのかもしれないのは民主主義に関する研究です。一言でいうと21世紀の世界においては民主主義というのは呪われた仕組みなのではないか、という研究をしています。どういうことかというと、2020-21年のコロナ年について考えてみると、実は民主主義的な国ほどコロナで亡くなっている人の数が多いということが分かるんです。つまりアメリカとかイギリスとかフランスみたいな国はコロナでしくじってダメージを受けていて、それに対して中国とかエジプトみたいな専制国家というのはすごくうまくコロナの封じ込めに成功しているんです。加えて、民主主義的な国ほど去年のGDP成長率が低いということもわかります。さらに、これらはただの相関関係なんですが、この相関関係は因果関係でもあるということを示すこともできて、この民主主義国家たちが去年経済においても人命においても苦しんでいる理由は何なのかということを調べてみると、実はこの民主主義的な政治制度というものがその苦境の原因になっているということがわかったりするのです。
そういう意味で、このコロナ禍においては民主主義的な政治制度というのは経済においても人命においてもネガティブな方向に働いたらしいということが分かります。これはある種、近代社会の経験則に対する反例だなという感じがするのです。産業革命から冷戦崩壊にいたる近代経済史の一つの教訓は、民主主義的な方針を取った方が、長い目で見ると経済も成長するし、人々も安全で安心な社会で暮らせるようになる。そういう民主主義的な政治制度への信頼が常識的な考え方だったと思うのです。この常識がどうやら今世紀に入って崩れ始めているらしくて、これがコロナによってすごく明らかになった、というような研究をしています。
今後民主主義の良くない側面、民主主義のダメな側面が更にはっきりとしてきてしまうのではないか、という懸念もあります。それがデータの点と関わっていて、中国みたいな国を見れば明らかだと思うのですが、データみたいに中央集権的に何かを集約してその集約したものをスマートな人たちが分析したり活用したりすることによって価値を作り出すというタイプの産業とか政策というのは、民主主義的な仕組みと相性が悪いと思うのです。今後どんどんデータによってデザインされて、データによって方向づけられていくような社会になればなるほど、今言った民主主義的な政治制度の持つ足かせとしての側面が強くなってきてしまうのではないかなという気はしますね。
じゃあ民主主義は諦めるべきなのかどうかといったらそれは難しい問題で、別に私たちが民主主義的な政治制度を取る理由は必ずしも経済成長したいからとか、感染症のような問題や天災がおきた時にそれを早く封じ込められるからという短絡的な理由ではないわけですよね。たぶんもっと本質的に民主主義的な政治制度がそれ自体として良い、とか民主主義的な手続きを踏んで透明性高く何か決めることに価値がある、というような分かり易い成果指標とは別の規範的価値ということを私たちは民主主義に見出しているはずです。だからそういう成果指標には表れないような価値と成果指標のあいだのある種の戦いみたいなものが今後起きてくるのではないかな、という予感します。イメージとしては、民主主義とか個人の自由みたいなものを犠牲にしたような国がガンガン豊かになってガンガン成長して有事や緊急事態にもものすごくてきぱきと対応できている、ということを私たちが目にしたときに、私たちはなお民主主義的な仕組みというものを取り続けるべきだと思い続けられるのかどうか、というような問題ですかね。これが今後数十年間ですごく重要になると予想しています。
Q: 人々が一生懸命が考える以前にデータ的なものがたくさん出てくると、意識しなくとも民主主義的ではない決め方が自然に進んでいってしまう、ということもありますか。
成田: そうですね。それは避けられないある種の実験として、望むか望まざるかにかかわらず進んでしまうのではないかな、という気がしています。つまりあまりデータがリッチでないような19世紀、20世紀的世界だと、選挙をやって代議士を選んで彼らが議論をして物事を決めていくという、いわゆる僕たちがイメージする民主主義的な仕組みがすごく理にかなっていたと思うんです。ただ段々と僕たちが意識的に情報を収集したり意識的に考えたりして決断するという以外の物事の決め方がデータによって可能になってくると、僕たちが選挙に投票するとか政治家たちが国会に集まって議論するとかということがすごく無駄なんじゃないかという気もしてくるわけなんですよね。そんなことをする暇があったら勝手にデータを集めてそのデータでよさそうなものを決めてしまえばいいんじゃないかと考えるのも自然なことではないかと。そういう風にデータとか私たちの無意識みたいなものに世の中の選択をゆだねた時に何が起きるのか、ということはこれまで人類が実験したことの無い挑戦だと思うのです。こういう挑戦があるとそれが本当に望ましい結果を生み出すかどうかはさておいて、とりあえずそれを試してしまうというのが人間という動物の性なのかなと思っていまして、いわば人間の自由とか選択ではなくてデータが指し示す正しい方向というものに身をゆだねるという方法は今後避けがたく進んでしまうはずです。
Q: 日本もそのような方向に行ってしまいそうな感じがしますが。
成田: 日本は良くも悪しくも成熟して安定した民主主義社会の典型みたいな部分はありまして、みんな自分の意見みたいなものを持っているし、世論のようなものもすごくうるさいじゃないですか。こういう社会では独断的なリーダーとか集約されたデータみたいなもので特定の方向に突き進むようなことはしにくくて、とても慣性の強い社会なんだと思うのです。そういう意味では日本のような社会が、良くも悪しくものろくて安定した民主主義的な合議での物事から逸脱するためにはすごく大きな危機が来ないとダメなのかもしれません。大地震とか大噴火とか本当に国を脅かすような危機が訪れて初めて今の社会の仕組みというものを日本が捨てる可能性が出てくるのではないでしょうか。
Q: 今のコロナの危機はそこまで大きくないですか。
成田: 現状だとまだ全くそこまで大きくなくて、日本の政治や行政の仕組みが目に見えて変わるには程遠いですよね。2011年の大地震の時も同じで、あれで変わるかなと期待した人たちがいたけれど、10年たってみるとあれで大きな社会の制度とか規制とか雰囲気がすごく大きく変わったということはなかったと思うのです。ということは、2011年の地震や今回のコロナよりもっと大きな危機が来ないとこの国が変わることはないのかもしれない。
さらに、変わらなければいけないのかどうかもわからないです。この国はこういう仕組みで世界でそこそこ豊かで3番目に大きい国の地位を保ち続けているので、このままでいいという考え方もあると思います。
ただ、戦前の世界を考えると、大地震や大恐慌、そして感染症のようなそこそこ大きな危機がいくつか重なることですごく大きな政治制度の変容が生まれたわけですよね。今世紀にもこのようなことが起きる可能性はあると思います。そういう合わせ技の候補の一つが、地震や噴火などの大きな天災と緊張している東アジア情勢からの外圧の組み合わせです。非常に危険な状況に陥るリスクが十分にある時代に生きているんだろうなという気はしていますね。
Q: 民主主義の危機のようなものが、先生がそれを研究されている意義ということでしょうか。
成田: あとづけで言えばそうですね(笑)もともとコロナ前から民主主義の危機のようなものは叫ばれてきたじゃないですか。中国のように民主主義に逆行している社会がすごく成長しているとか、アラブの春のような民主化運動が壮大にぽしゃってしまったとか、アメリカや南米で目の眩むようなポピュリスト政治家が出てきて、フェイクニュースやソーシャルメディア上の情報汚染によって民主主義の基本的な要件(高品質で共通した教育と情報)が機能しなくなってきているといったことはこの10年ずっと言われてきたことですよね。それが今回コロナでさらに大きく激しい形で見える化されたという印象がすごくあって、日米で起きていることを見ていて今お話ししたような研究にたどり着いた感じですね。
さらにもっと長い目で見ると、そもそも民主主義と経済の関係や、民主主義と人命の関係というのは社会や人間についての科学・思想の一番重大な問題の一つですよね。そういう問題に本質的に興味があって、ただそれにどうアプローチしたらいいのか分からず、もっと技術的な問題や、もっと直接的に使えるようなツールのような研究を色々やってきたのですが、社会科学の根本問題に戻ってみてもいいかなと最近思っている感じです。政治家の人たちと話すYouTube番組(https://www.youtube.com/playlist?list=PLwYx57BBCEc29AtxmoHt5b5O8n8Ho4q8v)をやっているのもそういう問題意識の一環です。
Q: 日本はどう進んでいけばよいと思われますか。
成田: それがわかれば苦労しないですが(笑)何かが良い・ダメという分かり易い基準にしたがって一番を目指していくより、自分たちにとって何が重要なのか、何を作り出せれば満足で、何は諦めてもいいのかというアイデンティティのようなものをはっきりさせることが大事かもしれないですね。たとえば、フランス政府やフランス人がフランスという国やフランス企業がインターネット産業でイノベーションやGAFAMを創り出せていないということに落胆しているところを見たことがないのです。それは彼らのゲームではないという感じで諦めきっているんだと思うんですよね。そういう諦めを持っていないということが日本の問題なのかもしれないな、と思いますね。人とあまり比べる必要はないという気がします。比べる競争は誰かが負け犬になりますから。
日本のゲーム産業とか京都ブランドはそれに成功してますよね。他の人の物差しで自分を評価する必要があまりなくて、もともと内輪な日本のドメスティックな文化の中からモノや作法を作っていって、なぜかそれが日本国外の人からもエキゾチックな価値として認められていて、経済的にも文化的にもうまくいっているような産業ですよね。
Q: 日本の若い研究者が海外で研究をすることについてどう思われますか?
成田: 何がやりたいか、何が得意かによるんじゃないでしょうか。論理とかデータとか数学とか、普遍的な道具で勝負したいと思っている人は日本という文脈にこだわらず、海外に出た方が面白いのではないかと思います。アスリートが日本人同士の比較にこだわっているべきではなくて、出ていけるのなら世界に出ていくべきというのと同じですね。
ただ、研究、科学や文化・文芸はそれだけではなくて、日本の歴史を研究したり、日本の経済を研究したり、場合によっては現在の日本の社会や政策や産業に関わって変化を生み出していくという活動も十分あるわけですよね。そういう場合は日本という特定のコミュニティー・歴史、日本語という特定の言語で積み重ねられてきた情報の歴史と向き合うのが重要です。ローカルで内輪だからこそ価値があるというタイプの学問も当然あるわけで、翻訳できないとか、外部の人には価値が分からないというようなものにもそれ自体として価値があると私は思うんですよ。家族や故郷にはマクドナルドやスターバックスとは違う価値があるのと同じです。
そういうものに中途半端に国際競争力みたいな価値観を当てはめるのはただの価値破壊だと思います。日本の大学でいえば、中途半端に国際競争力というようなことばかり強調するようになると、日本でしか作り出せないような学問や文化が創り出せなくなる方向にどんどん行ってしまうのではないかという懸念がありますね。
たとえば国際的な英語のジャーナルに載ったかとか国際的なコミュニティーで評価されているかどうかで評価するという形で日本国内の内輪話を切り捨ててしまうと、グローバルスタンダードで評価できるものしか残らなくなってしまう。ですが、日本のようにそもそもグローバルなコミュニティーと断絶されたところで生きているような社会にグローバルスタンダードを持ち込んで何が起きるかというと、グローバルスタンダードに則った低品質なものだけが残りますよね。「海外の有名人研究者がアメリカのデータを使ってやった研究を日本のデータで繰り返しました」みたいな研究がその典型です。独自の世界観や審美眼のないただの劣化版ですね。
そういう二番煎じ国家になるのは悲しいことだと思っていて、そうなってしまうくらいであれば、むしろ日本の中でしか通じないけれども世界のほかの場所にはないような学問を作ることの方が大事なのではないかと思っています。
Q: まだ日本には学問や思想に独特な厚みがあるということですね。
成田: ええ。研究だけでなく、日本人以外が日本という国をイメージするときに一番はじめに出てくるのは「なんか変で他の場所にはないようなものが色々ある」ということで、これが主な価値だと思うのです。それに比べて、質が高いとか、強いとか大きいとかということで今の日本を評価している場面はほとんど見ないです。食べ物に関しても、日本食は「美味しい」というより、何かよくわからない、他の何物とも違うものとして価値を認めていると思うのです。学問についても本来は同じことが言えるはずで、頑張って競争する、評価できる軸で評価されるものを作る、というのと同じくらい評価の軸そのものから逸脱する、他の場所にはないようなものをつくる、ということが重要なのではないかなと。
Q: 日本の学生に伝えたいメッセージがありましたらお願いします。
成田: 特にないですが(笑)、それじゃあインタビューにならないですね。しょうもないことを言うと、自分の好みや癖とちゃんと向き合うことが重要なのではないかなと思いますね。経済学の研究者でもそれ以外の業界でもそうなのですが、他人や業界からの評価を気にする人がすごく多いなと。有名なジャーナルに載るとか就職活動がどうこうみたいな与太話が本当に多いじゃないですか。人からの評価を最大化する路線はそれが好きで得意ならやればいいのですが、危険な路線でもあります。他人と同じ軸で競争するということになるので、すごく能力の高い人、運のいい人以外はほとんど価値がなくなってしまうからです。ほとんどの人にとっては、むしろ自分にしか作り出せないような変なものの見方とか問いの立て方とか問題に対するアプローチの仕方を突き詰める方が明らかに得策です。要は自分の好みや癖と向き合うことですね。そういう意味では、世界に目を向けすぎずに、良くも悪しくも鎖国した日本というものを利用して、自分の内側にある問題やテーマというものをどうやったら抽出できるかということ考えるのが重要なのではないかなという気がしています。
Q: 今後は日本に戻られる考えはおありですか。
成田: 理想的には半々というか、いくつかの場所に同時に帰属する形がいいなと思っています。いくつかの場所に同時に帰属するということはある意味でどこにも帰属しないということで、ずっとストレンジャーでどのコミュニティーにもどっぷり浸かり過ぎないということが可能になるのではないかなと。どのコミュニティーにもどっぷり浸かり過ぎないということによって、いくつかの国や、幾つかのコミュニティーの良いところだけをつまみ食いしながら自分だけの世界を作ることを目指していきたいなと思っています。日本に100%帰属するより、むしろ日本と関わりながら他の国にも同時に帰属して多重生活みたいにしたいです。
Q: 子供時代のネットサーフィンしていたころのものが続いておられるような...
成田: そうなんですよ。そういう多動的な世界を持ち続けられたらいいなとは思っています。
Q: ネットだけでも無理だということですね。
成田: ネットとリアルも行ったり来たりしたいです。今みたいな多重生活が可能になったのはネットのおかげですね。今、私自身は日本時間の日中は日本の仕事、日本時間の夜はアメリカの仕事をしているという感じですが、こんなことは20年前だったら全く不可能だったと思います。同時に複数の社会とか複数の業界に所属するようなことが可能になったのはインターネットのおかげなのかなと思っています。インターネットにはずっと決定的な影響を受け続けているということなんじゃないかな。
Q: 先生はとてもお忙しいようにお見受けするのですが、逆にそれがご自身に合っているということですね。
成田: そうですね。何か一つの事だけをやり続けているとすぐ疲れてしまう、同じ事をずっとやっているとこれでいいのか、というアイデンティティ・クライシスみたいなものにあっという間に陥ってしまうタイプの人間なんです。色々なことを順番にやっていることで、良くも悪しくも気分転換になっていて、無駄な悩みにはまらなくていいという意味でむしろ疲れなくてすんでいるのかな、という感じです。
Q: お仕事から離れている時間、暇な時間はどのように過ごされていますか。それともほとんどお仕事をされているという感じですか。
成田: 最近は本当に色々な仕事をしているので、遊んでいるのか働いているのかわからないですね。もちろん研究して論文書いている時間も長いですが、ウェブ企業で業務データをいじっていることもありますし、美術館にお邪魔して美術展の批評を書くこともありますし、宇宙関係のスタートアップの工房で人工衛星についておしゃべりしていることもありますし。だから私の中では仕事か、仕事でないかというような境界線がないという感じがしています。
Q: 先生の記事を色々拝見して、歩くのが趣味だとあったのですが、意識して歩いていらっしゃるのですか。
成田: 歩くのは大事です。仕事と仕事以外の境界が曖昧で永遠に仕事をしていられるタイプの人間なんですが、そうするとあっという間に体が壊れるということを学びまして。心の方は大丈夫なんですけれど、体の方が先に悲鳴を上げることを避けるために、歩くこと、風呂に入ること、サウナに行くことはとても重要だと思っています。これが若者への一番重要なメッセージかもしれないです(笑)
歩いていると別に何も考えていなくても作り出していなくても罪悪感が生まれないという不思議な何かがあると思うんですよね。布団の上とかベッドの上で何もせずにぼーつとしていると、何もしてないな、という感じがあるじゃないですか。でも歩いているときは何もしてないなと感じなくて済むような感じがするんですよね。歩くこととか移動することは、多分それ自体何か意識しなくても頭を動かしたり思考したり、何かを感じたりしているということなんだろうなという気がしています。
Q: 最後にちょっと大きな質問かもしれませんが、先生のモットーは何ですか。
成田: 人生のモットーとか原理原則とか夢みたいなものを持たないことが重要だと私は思っています。今の世の中は、自分が何者なのか、どこに向かっているのかしっかりプレゼンできる人がすごく多いと思うのです。そういう風にできるべきだというプレッシャーがすごく強いですよね。研究者でも、経営者でも、どんな職業でも。だけど人間ってしょせんは動物なので、本当のモットーなんてたぶんないですよね。なのに不幸にも、モットーがないということに不安を感じてしまって自分のモットーは何なのか、自分が向かっている方向は何なのか、これに意味があるのか、などを問い直してしまうような不安を抱く能力を持ってしまった動物なんだという気がするんです。その強迫観念から少しでも自由になれるように、無目的に迷走しながら生きていきたいなと思っています。
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成田先生におかれましてはご多忙のなか貴重なお時間をインタビューにお答えいただきありがとうございました。とても真摯に、この未曽有のコロナ時代に私たちの感じた素朴な疑問などにもお答えいただき、先生の温かいお人柄に触れることが出来たような気がいたしました。先生はこれからも興味の赴くまま社会の根源の探訪を続けられるのでしょうか。これからまたどのような成果を出していかれるのか、先生のご活躍を楽しみにしております。
インタビューアー: CEI 狩野倫江・吉田恵理子 (2021年5月12日収録)